Pasticceria Maritè: 幸せな朝食

旅先には、歴史的な建造物を目当てに訪れる町もあれば、美しい景観に惹かれて足を運ぶ町もあります。ボルセーナは、そのどちらにも当てはまるだけでなく、さらに珍しい存在です。
自然、歴史、そして人々の日常が見事なバランスで共存している町なのです。
ヨーロッパ最大の火山湖であるボルセーナ湖を望むこの中世の町は、中部イタリアを代表する観光地の一つとなっています。


湖畔の遊歩道を散策し、セーリングやサイクリングを楽しむために多くの人が訪れます。しかし近年では、それ以上に、この町に流れるゆったりとした時間そのものが旅の魅力となっています。
マスツーリズムによって大きく姿を変えてしまったイタリアの観光地も少なくありませんが、ボルセーナには今なお本物らしさが残っています。


夏の朝は、歴史地区をゆっくり歩き、バールのカウンターでエスプレッソを飲み、古い石造りの町並みの向こうに輝く湖を眺めることから始まります。
ボルセーナはまた、イタリア国外ではまだあまり知られていない「トゥッシャ地方」への玄関口でもあります。
ラツィオ州北部に広がるこの地域は、エトルリア文明の歴史、火山性土壌、そして豊かな農業文化によって育まれてきました。
古くからオリーブオイル、豆類、野草、季節の野菜がこの土地の食文化を支えてきましたが、中でも地域を代表する存在といえるのが「ノッチョーラ・デッラ・トゥッシャ(トゥッシャ産ヘーゼルナッツ)」です。
イタリアでも屈指の品質を誇るこのヘーゼルナッツは、地元のワインやチーズ、伝統的な焼き菓子とともに、この土地ならではのシンプルで質の高い食文化を形づくっています。
そんな土地で生まれたのが、「Maritè」です。

Maritèを営むのは、マリア・ブラキーニさんとエマヌエーレ・テッラノーヴァさん。
仕事でも人生でもパートナーである二人の物語は、Maritèが誕生するずっと前から始まっていました。
二人は高校時代の同級生として出会い、数年間同じ机を並べて学びました。
卒業後、それぞれ異なる道を歩みます。
マリアさんは製菓の道を選び、イタリア屈指の料理学校「ALMA(イタリア国際料理学院)」で学びました。
一方、エマヌエーレさんは「Étoile Academy」で料理を学び、その後イタリア国内やロンドンなど海外のレストランで経験を積みました。
二人が再び出会ったのはロンドンでした。
再会をきっかけに、自分たちの知識と経験、そして夢を故郷へ持ち帰り、ボルセーナ湖畔で自分たちだけの店を作ることを決意します。
こうして誕生したのがMaritèです。

二人は公式サイトで、店名に込めた想いを次のように綴っています。
「Marité rappresenta l’unione che è stata necessaria a realizzare questo sogno, la prova che due cuori sono meglio di uno.」
(Maritèとは、この夢を実現するために必要だった二人の結びつきを表しています。二つの心は、一つよりも強いという証なのです。)
Maritèがオープンしたのは、2024年5月。
その情熱、努力、そして菓子作りへの喜びは瞬く間にボルセーナの外にも広まり、2026年3月には「DolceRoma Awards」において「Pasticceria Rivelazione del Lazio(ラツィオ州ベスト・ニュー・パティスリー賞)」を受賞。
ラツィオ州でも最も注目される新しいパティスリーの一つとして、その名を確立しました。

Maritèの魅力は、ただ新しさを追い求めていることではありません。
そこには明確な技術的ビジョンがあります。
とりわけ折り込み生地(ラミネート生地)は、イタリアでもめったに出会えないほど完成度の高い仕上がりです。
朝食カウンターの主役であるコルネットは、その代表例です。

イタリアのコルネットは、フランスのクロワッサンとよく比較されますが、まったく異なる文化から生まれたパンです。
コルネットの生地には卵が加えられ、より柔らかくリッチな食感になります。そしてバニラがほのかな香りを添えます。
一方、クロワッサンはよりシンプルで、バターそのものの風味を際立たせることを重視しています。
Maritèでは、このイタリアの伝統を尊重しながらも、非常に高い精度で仕上げています。
生地はあえてクセを抑えたニュートラルな味わいに設計されており、甘いフィリングにも塩味の具材にも調和します。イタリアらしさを失うことなく、現代フランス・ヴィエノワズリーを思わせる高い技術が感じられる一品となっています。
コルネットに加え、チョコレート入りのファゴッティーニや、パティシエールクリームとチョコレートを包んだパン・スイスも見事です。
フランス菓子から着想を得ながらも、しっかりとイタリアらしさを保っています。

ミニサイズの焼き菓子の中では、フィナンシェが特に印象に残ります。
これはフランスの伝統菓子を土台に、マリアさんが独自のアレンジを施した一品です。
アーモンドプードル、卵白、焦がしバターで作られるフランスの伝統菓子「フィナンシェ」は、「金融家・資産家」という意味で、焼き型が小さな金塊(ゴールドバー)の形に似ていることから金融街で働く人々に好まれ、その名前が付いたと言われています。
この形はパリのパティスリー文化の中で広まり、現在でも精巧さや価値の象徴として知られています。
Maritèでは、このゴールドバーを現代的なスタイルへと生まれ変わらせています。
生地自体にフレーバーを練り込み、仕上げには薄いチョコレートのコーティングとガナッシュを重ねることで、伝統的なフィナンシェにはない奥行きとコントラスト、そして独自の個性があります。

もう一つの代表作が、ヘーゼルナッツそっくりに仕上げられたリアルなプティガトーです。
トゥッシャ地方を代表する農産物であるヘーゼルナッツへのオマージュとして生まれたこの一品は、美しい見た目だけでなく、地域食材を現代パティスリーの技術によってさらに高めるというMaritèの哲学そのものを表しています。

日替わり商品にも、二人の創造性がよく表れています。
私たちが訪れた日は、折り込み生地にバナナクリームを詰め、キャラメリゼしたバナナを合わせた一品が登場しました。懐かしさを感じさせながらも洗練された味わいです。

Maritèが最も興味深い存在である理由は、お菓子だけではありません。
それは、イタリアの朝食文化そのものについて新しい提案をしていることです。
長年にわたり、イタリアの朝食は「カプチーノとコルネット」というシンプルな習慣によって象徴されてきました。今でもそれは、この国の日常を彩る最も美しい風景の一つです。

しかし、多くの場所では、その習慣はいつしか「楽しむ時間」ではなく、「素早く済ませる時間」へと変わってしまいました。
工業製品が職人仕事に取って代わり、品質よりも効率が優先され、本当に印象に残る朝食に出会うことは少なくなっています。ある意味で、イタリアの朝食はファストファッションのようになりつつあります。均一化され、効率的で、あっという間に消費されてしまう存在です。

Maritèは、そんな流れとは異なる道を選びました。
イタリアの朝食文化を否定するのではなく、本来あるべき姿を大切にしながら、素材も製法も妥協することなく、一つひとつを丁寧に作り続けています。
朝の光が差し込む店で、香り高いカプチーノを味わい、職人が丁寧に焼き上げたコルネットをゆっくりと楽しむ。この贅沢な時間を過ごすために、この街を訪れてみてはいかがでしょう。
イタリアでも屈指の美しい湖を望むボルセーナで、Maritèは私たちに改めて教えてくれました。
朝食とは、忙しく済ませるものではなく、少しだけ立ち止まって味わう価値のある小さな幸せなのだと。

Maritè





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